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反逆教師ネモトマン

教師が生徒のことを、出来るだけ知ろうと努力することは必要です。しかし、逆に生徒は担任の先生のことを知りません。知るすべもありません。担任の先生がどんな中学生だったのか?何を考え、どんなことに悩み、何に夢中になったのか。初恋はいつ頃だったのか。それは先生自身が語らない限り解らないことです。だいたいの教師は自分を語ろうとしません。
この文章は昭和60年に書いたものが基本となっています。根本満物語は私が初めて中3を持った時、自分の過去を振り返りながら、生徒に担任のことも知って欲しいと思い、1週間くらいかけて書き上げたものです。学級通信として5枚組くらいで出しました。忘れないうちに、自分史みたいなものを書けたらいいなと、以前から思っていたのも確かです。自慢話と受け取られる部分もありますが、「自分をほめる」ことが昨今、はやりなのでお許し下さい。
根本満物語
 昭和30年代半ば、三洋電機で有名な町の家具建具製造販売店の5男坊として生まれる。下に6つ違いの弟がいる。3男は私が小3の時、当時中学2年の若さで病死。それ以来、両親と男の兄弟5人の計7人家族で生活。同世代の中では兄弟が多くそれに反比例して家計は貧困きわまりなかった。幼少から友人に対する劣等感が強く、友達の家がうらやましくて、いつも心の片隅に経済的な劣等感がいすわっていた。

 今になって思えばその貧しさが負けず嫌いな性格をつくり、今までの自分を支えてきたことは確かだと思う。だけど当時としてみれば、つらかった思い出がたくさんあった。親どうし、また兄と父親が口論になって、兄がこんな家は出ていってやると言ったことは度々あった。それらの原因を辿っていくと必ず突き当たるのは「お金」であった。金がないばかりに両親が言い合ったり、親子げんかが起こる。時には物が飛びかうこともあった。小・中学生だった幼い兄弟の不安は大きかった。お金に貧しかった上に、心まで貧しかった。
 
 最近になって少しは親への感謝の気持ちが出てきたが、それまでは尊敬など一度もしたことがなく、むしろこれが親かといった気持ちが強かった。子供に苦労ばかりかけて、自分は好きな事を勝手にやってて、子供のために何をしてくれたことがあるのか。ろくなものは食わぜず、小遣いはほとんどくれたことがなかった。こうした家庭環境の中で、男の兄弟5人の中で、ほとんど自分の思い通りにならないつらさを毎日味わい、毎日兄と喧嘩をして、高校まで暗い家庭であった。
 
 この暗く貧しい家庭が私の原点なのです。だから今だに食べることについては非常なまでの執着心がある。意地きたないところがまだまだ残っているのである。しかし、こんな暗い家庭で育ったせいか、自分の性格は逆に明るくなっていったようである。自分の家庭の暗さや、自分の親を反面教師として成長してきたような気がします。
 
 今の自分にとって今の親はいい親かも知れません。今は、父親を素直に尊敬できます。それは幼い日の記憶の中に、全然仕事が無く家計が苦しかった時、ほとんどお金にならなくて手間のかかる仕事を頼まれても、いやな顔一つせずにやっていた姿が浮かんでくるからです。人が困っている時に、たとえたいしたお金にならなくても、それが自分の仕事なら、こころよく引き受けてやるという気持ち。“お金よりももっと大切なもの”がそこにあったのだと思います。今思えば、これ一つだけでも父親として尊敬するのに十分だと思います。欠点だらけの親でもすべて許してしまえるような気持ちが今の私にはあります。

 優秀な人ってどんな人のことでしょうか。成績が良く、頭のきれる人のことでしょうか。私はそう思いません。元々の意味を考えてください。「優」とは“人を憂える”こと、つまり人のことを心配することです。そして「秀」とは秀でているということです。まとめて言えば“人のことを心配することに秀でている人”を優秀な人と呼ぶのです。別な言い方をすれば、“優しさに秀でている人”“思いやりに優れている人”だと思います。私の母は、私に優秀な教師になってもらいたいと願っているようです。勿論、優しさに秀でた教師のことです。

 親や先生に反抗ばかりしていた当時の自分が今思うと、情けなく思ったり本当に馬鹿だったと思ったりもします。しかし、そうした反抗期を経験してこそ、人は成長するものだと思います。無駄なことでは決してないと思います。何かに疑問を持ったら、とことん考えたらいいと思います。とにかく迷わずにやってみることだと思います。そして壁にぶつかったら、そこで考えればいいことです。やる前からしりごみしていたら何もできません。受験もその途中の一つの壁にしかすぎません。避けて通れないのなら、真正面からぶつかってみることです。自分の力を試す絶好の機会ではないでしょうか。

生い立ち
幼稚園時代・・・この時代が正しく青春真っただ中と言っても過言でないほど色々の思い出がある。雑巾がけの競争で負けるとげんこつをくれる怖い先生がいた。今でもはっきり覚えている。だけど本当は優しい先生であった。

小学校時代・・・小学校1年入学早々、女の子にけがをさせる。担任の女の先生に正座させられ、こっぴどく怒られ、泣きべそをかく。この頃からすでに泣き虫であった。小学校3年の時、学校帰りに橋の上から石を投げて遊んでいたところ、自分の投げた石が確かにコーラの瓶に命中しているはずが、隣でうずくまる友がいて、石の音すらしなかった。その友達は翌日、頭に包帯をして登校した。その他にも数人けがをさせてしまった記憶がある。

 自分がけがをした記憶は小学校1年の時、鉄棒から落ちて左手首の骨にひびを割ったくらいで、もっぱら人にばかりけがをさせていた。そして4年頃から気がついたら自分はいじめっ子になっていた。特に5,6年の時はクラスの気に入らない女の子を1日に何回も泣かしていた。そのいじめぶりは極悪非道で、口に出して言えないほどであった。6年の担任の先生は見るに見かねて、家に不意に電話してきた。それ以来女の子いじめは止めたが、担任の先生に対する恨みはつのった。
 小学校時代、得意といえば図工と体育と給食ぐらいだったと思う。学級委員などに選ばれるはずもなく、体育委員か給食委員がせいぜいであった。担任の先生は私を目の敵にしていつも怒っていた。

中学校時代・・・入学当初、オリンピックの体操の選手を夢見ていたが、体操部がなくなっていて、仕方なく巨人の星を目指して野球部に入部。将来をしょく望されたが、1年の夏休みで退部、自分に最も不向きなバレー部に転部。身長が低いことが致命的でレギュラーは無理だと思われたが、負けず嫌いな性格が何とかレギュラーのポジションをとらしてくれた。チームにとって、ほとんどいてもいなくても変わらないという名フェインターの座についた。
 バレー部に入った理由は担任の先生には、いずれ巨人軍に入団するけれどその前に基礎体力をつけておきたいということだったが、事実は当時のバレー部が強くて、非常に人気があり女子生徒の憧れの的であったからだと思う。
成績は新人戦・O市近接・夏季郡大会優勝、東毛地区・両毛地区大会に準優勝した。どの大会も私の力はほとんど借りることはなかったようだ。
 チームとしては栄光に輝いていたが、自分個人としては、いつもチームの足を引っ張ってばかりで、情けない思いで、悔しい思いでたまらなかった。中学時代の一番の思い出は、やはりバレー部での意気地の無い自分の姿だと思う。しかし、練習では燃えに燃えてやっていたと思う。

 中3になって、初めて学級委員という全く似合いもしないものに選ばれた。人に負けたくない一心で勉強をしていたら、少し成績が上がって、とたんに学級委員に選ばれ、校内弁論大会に出され、郡の駅伝大会には選手として出場し、郡の陸上大会でもハードルで出場した。出るものは一通り出たが、その結果の悲惨さは語り尽くせない。
 陸上大会では、本番前の練習でハードルを倒し、そのハードルで足をけがして、びっこを引いて出場。断突のペケで恥をかいた。校内の体育際では、400mに出場、200mのトラックを1周したところで、2位以下を10m以上引き離していたが、そこで足はピタリと動かなくなり、あれよあれよという間に1人に抜かれ2人に抜かれ、とうとうゴール寸前には最後の1人に抜かれ、一気にペケとなりゴールした瞬間、足はもつれ見事に転倒して大恥をかいた。

 今までの自分の人生を振り返ると、いつもこの調子であったように思える。それが、かえって陸上大会のように後でロマンスを生むようなことも時にはあったようだが。
 一方、担任の先生は1年・2年と新卒の同じ先生であった。今だにこの先生の家に遊びに行く。今の自分を語る時欠かせない大恩師である。
 3年の時の担任はベテランの先生だったが別に私に何を教えてくれたという記憶はない。中1・中2の旅行で2度までも正座をさせられて怒られたことも今ではいい思い出である。その時に教わった若い先生こそすばらしい先生だと思う。(この先生が私の仲人)

高校時代・・・・思い出すだけでもぞっとする。正しく、highschoolは灰スクールであった。いい思い出は何一つ無く、思い浮かぶ先生の顔はどれも無気力で無表情であった。高1の1年間新聞配達をした。1年の時の担任は、「私は生徒を信じないことに決めている」と言って威張っていた。
 本当のことを言うと私は、この先生との出会いが教師になろうと思うようになった一番のきっかけだったように思う。当時、学園ドラマが花盛りで、青春ものが人気があった。熱中先生、金八先生と確かに大きな影響を受け、ああいう先生になりたいという気持ちも強かった。しかし、私の気持ちを不動のものにしたのは「私は生徒を信じないことにしている」と言った先生や、生徒に勝手にソフトボールでもさせていて、自分は教官室でコーヒーを飲んでいた体育の先生だったような気がする。そういう教師に対する怒りが私が体育の教師を目指した原動力となった。

 自分には体育の教師しかない。生徒と一緒に汗を流せる、これ以上すばらしい仕事はないと信じて疑わなかった。半ば高校生活は、受験勉強一色になった。大嫌いな勉強を無理矢理やる苦しさに耐えて、やっと春の訪れがやってきた。体育の教師になる夢がかなう時がやってきた。
 53年3月、合格発表の日、一人で自信満々で見に行く。ところが、あるべき所にあるべき名前がないのである。何度見直しても、見慣れた名前がそこにはなかった。・・・・こうして、全く予想もしていなかった、真っ暗闇の宅浪生活が始まった。

浪人時代・・・前にも後にもこれほどつらい日々はないと思う。家には金がない。私立大には行かせてもらえない。予備校など勿論行かせてもらえる余裕などなかった。一人孤独に図書館予備校に通った。
 夏の一番暑いとき、1カ月鉄工場でアルバイトをし、学費の足しにしようと思った。浪人生の私は一日4500円で大学1年生なら5000円だった。30日間で15000円も違ってくる。こんな所でも学歴社会の矛盾を感じた。そして、初めて自分で稼いだお金でステーキを食べた。テレビなどでよく耳にするステーキというものが、一体どんなものか一度でいいから食べてみたかった。
 19才にして初めて食べたステーキの味は決して美味しいものとは思えなかった。それでも一つの夢が実現した喜びに満足していた。
 ちょうど同じ時期に、ある先輩から小学生のバレーのコーチを頼まれ、週に一回土曜日に出かけるようになった。暗く沈んでいた私の気持ちを励ましてくれるかのように、みんなは明るく元気だった。県大会にも連れていったその生徒たちが、私が大学の試験(共通一次試験)が終わった時、家まで手作りのお守りを持ってきてくれた。その時の感激は今も忘れない。

 こんなにすばらしい思いをさせてくれた先輩は、私が大学の卒業式の前日、胃ガンで亡くなった。奥さんと2人の子供を残して、27才の若さでこの世を去った。卒業式の日、私は涙を流した。卒業の感激の涙ではない涙を。
 浪人時代、挫折・絶望、そして光の見えてきた夏、すばらしい友に支えられ、すばらしい恩師に支えられ、何とか乗り切ることができ、今こうして夢にも思わなかった理科の教師となっている。

大学時代・・・中学時代と並んで充実した4年間であり、今の自分を確立した時代であった。私の理想の教師像には、担任としての魅力、理科の教師としての魅力ともう一つ、部活動の顧問としての魅力の3本柱がありました。何か一つの競技スポーツの中で生徒に本物を教えられたらすばらしいことだと思った。
 そして、高校時代中断したバレーボールを再び始めた。男子バレー部の顧問になることを夢見て、生徒たちにバレーボールを通して、耐えること、自分の可能性に挑戦することの大切さを教えたくて、何とか4年間バレー部に所属した。
 県内のエリート選手に混じって、そこらの中学生と変わらない自分が4年間バレーを続けることは辛かった。何故かと言えば、バレー部という一つの集団の中で自分が間違いなく一番ヘタだったからだ。自分の下手さ加減に何度悔し涙を流したかわからない。しかし、そのおかげで卒業するときは、生徒に本物を教えられる自信をつかんでいた。

 私が大学時代に専門でやっていたのは、理科の中では生物学でした。そして、卒論はコケ虫という非常に下等な動物の生活形態(生活史)を研究しました。T市の大きな沼に10日に一回来ては、コケ虫を採集して大学の研究室に持ち込んで、毎日毎日ひたすら顕微鏡をのぞいてはスケッチをするというものでした。そして、ある時一つの疑問が湧いてきました。その疑問を解決することを卒論のテーマにして、それから毎日夜の10時、11時まで顕微鏡をのぞく日が続きました。そして、最後の大詰めの時は夜中の2時、3時までかかりました。

 その努力の甲斐あって、とうとうその疑問が解けたのでした。これは勿論、世界で初めての発見でした。(私がテーマにした問題を本気で研究しようという暇な生物学者がいないというだけの話ですが。)こんなにも一つのことについて考え抜いた経験は一度もありませんでした。学問のすばらしさ、面白さを初めて実感できたときでした。そういう意味で大学の4年間は、掛け替えのないすばらしい時代だったと思います。(平成9年大学の恩師M教授が病死。)

新任教師時代・・・入った時から3年生にテメー呼ばわりされ、教師より生徒の方が偉いという、異常な状況にたたされた。1日にして理想も夢も一気に吹っ飛んでいった。
 自分のクラスの生徒にはいい加減嫌われ、学級新聞を作らせたら、ほとんど担任批判で、嫌いな先生ワースト5というコーナーでは、見事NO,1に選ばれた。嬉しくて嬉しくて、学校に行くのが憂うつで仕方なかった。
 なかった男子バレー部を作ってもらったが、部員が集まらず半年で廃部となった。自分の教師としての生き甲斐を失いかけた。PTA新聞に投稿した「新任の先生は語る」にその苦しい胸の内が描かれています。

教師2年目・・・持ち上がりで2年生担任。前年に比べて信じられないほど学校内外がきれいになり、テメー呼ばわりされる回数が減ってくる。少し心に余裕が出てきて怒る回数も減ってきた。女子バレー部を持たしてもらい県大会に出られるようになって少しずつやる気を回復する。
 女子バレー部の主顧問(監督)はK先生で私は副顧問(コーチ)でした。K先生はかつて県の女子バレーをリードし、その指導力・選手の気持ちを掴むことにおいて右に出る人はいませんでした。昔、よく西郷輝彦と言われてそのモテモテ振りは筆舌に尽くせません。私がおっしょさんと奉る、K先生の生徒の心を掴む術は、未だに真似が出来ません。バレーを通して人生とは何かを教わりました。たった一人の女子バレー部員を相手に(他の部員は厳しさから逃げてサボっていた。)指導する熱い姿を今でも覚えています。K先生の豪気な名前の一人息子は、北海道に就職し、綺麗なお嫁さんをもらい頑張っているらしい。

 教師1年目にして、生徒に襟首をつかまれ、2年目は何度か殴りかかられた。そして、実際に殴られ、額にコブを作ったこともあった。挙げ句の果てに鉄パイプで追いかけ回されたこともあった。狂気の沙汰であった。当時、有名だった東京のタダオ中と変わらなかった。また生徒会担当になり、なぜか体育大会を主催することになった。その凄まじい様子は研究紀要に載せました。

教師3年目・・・持ち上がりで3年生担任。お前達がこの学校を立て直すのだと3年間言い続けてきた。先輩の悪い所は見習うなと3年間訴え続けてきた。しかし、3年間持ち上げた生徒の一部にやはりテメー呼ばわりされることがあった。悲しかった。

 自分が3年間生徒のために戦い続けてきたつもりだったが、それが裏切られる気がして悲しかった。ただし、それはほんの一部であり、大部分の生徒は分かってくれた。3年間のつき合いで私のことを分かってくれた。
 つい先日、最後に持った3年のクラスのクラス会があった。皆高校3年にこの4月からなり、成長したその姿に教師としての一つの夢が叶えられたような気持ちで感激した。3年間持ち上げた生徒と共に私は最初の学校を卒業した。(今では市内で一番落ち着いた学校になったと聞く。)また、当時の教え子の一人に慶応大学に進学し、エースピッチャーとして東京六大学野球で、現在巨人で活躍している仁志のいた早稲田に勝って優勝し、胴上げ投手になった松本治がいる。この年、慶応は大学日本一にもなった。松本はベストナインにも選ばれました。年に1回は一緒に飲んでいる。道徳の授業で「松本治物語」を時々やります。

M中1年生・・・10年間の悲願が叶い、男子バレー部の顧問になれた。ところが、聞けばいつつぶれるか分からない、誰も持ち手のいない部だったらしい。マナー最低、練習試合を申し込んでも断られた。7人いた3年生は、私が来たとたん次々にやめ、最後に残ったのは3人だけだった。当時のキャプテンはオオイシと言い、正田醤油に就職し後輩のミツヤと頑張っているらしい。この二人と、平成14年2月23日、M中学区内の焼き肉屋で飲み、11時過ぎまで昔話に花を咲かせ、楽しい一時を送った。オオイシは綺麗な嫁さんを自慢げに連れてきていました。

 春季大会全敗、夏季大会3戦全敗でペケだった。しかし、新入部員20人という、前任校では信じられない部員数で希望に胸ふくらんだ。新人戦ではいきなり準優勝して県大会に出場できた。一つの夢が実現した喜びに満足していた。クラスの生徒も皆、すばらしかった。自分が今まで描いていた理想の生徒達のように思えて、学校に行くのが楽しかった。

M中2年生・・・2年6組担任、そして1組から7組までの7クラスに授業に出た。(理科で7クラスでるというのは最初で最後かも知れない。)自分のクラスの生徒は勿論全体的にすばらしい生徒達だった。男子バレー部は市春季大会で念願の優勝、近接大会3位、東毛地区大会3位そして、最後の中体連も優勝し、新人戦は断突で優勝した。余りにも夢や希望が叶い過ぎて怖いくらいである。

M中3年生・・・3年5組担任 

M中4年生(平成元年)・・・1年8組担任。忘れもしない記念すべき年。11月19日バレー部が、県新人大会で念願の初優勝。そして、1カ月後の12月16日、好運にも結婚することができた。1年8組の生徒全員が合唱コンクールで歌った「空駆ける天馬」を合唱してくれ、バレー部の生徒がユニフォーム姿でエールを送りにきてくれた。そして、卒業した元3年5組の生徒も祝福にきてくれました。

 この披露宴の席に私の初めての教え子を10人招待していました。その中の一人、K・カオリちゃんがお祝いのスピーチをしてくれるはずが、直前に時間がないのでカットさせてくれと式場の人に言われ、せっかく私のために一生懸命に考えてきてくれたスピーチが無くなってしまいました。私はそのことが今だに残念で仕方ありません。懺悔の気持ちで一杯です。本当にごめんなさい。嬉しいことに、後で彼女がわざわざそのスピーチを送ってくれました。そのカオリちゃんは現在、素敵な旦那と二人の可愛い子供に囲まれ、Y市で幸せに暮らしているらしい。

M中5年生(平成2年)・・・2年4組担任。5年目にして初めて合唱コンクール入賞(優秀賞)8月バレー部が関東大会・全国大会に出場し、9月に長女が誕生。自分の運の良さに驚くばかりの1年でした。

M中6年生(平成3年)・・・3年7組担任。M中2度目の3年間持ち上げた生徒と共にすばらしい1年を過ごすことができた。バレー部は県総体優勝、関東大会第3位、そして2年連続全国大会出場。せっかくの全国大会で九州に行けたのに、台風が居座って一度も青い空、青い海を見ることができなかった。(あー残念)

 そして、最も大きなニュースとして、6月20日のサンケイ新聞にとうとう写真入りで私の記事がのりました。私は、ファンレターがどっさり届くことを期待したら、何と1通も来なくてがっかりしました。

M中7年生(平成4年)・・・2年4組担任。今だかつて無いくらい個性豊かなすばらしいクラスでした。今の3年生との初めての出会いでもありました。部活動では春季県大会2連覇、県総体準優勝、そして関東大会で全国優勝したチームにフルセット(1ー2)で惜しくも負けました。

M中8年生(平成5年)・・・3年8組担任。M中最後の年にふさわしい素晴らしい生徒達でした。バレー部は春季県大会で、1セット目0−15で負けた後、奇跡の大逆転で3連覇を達成。県総体3位、3度目の全国大会を目指したが関東大会で敗退、最後の夢は実現できなかった。

このM中での8年間で、色々な経験をし夢を叶えることが出来ました。様々な先生達と出会うことが出来ました。心底尊敬できる先生、個性の爆発している先生、はたまた上しか見ていない教師の風上にも置けない先生等々。次の年に転勤になる。

MS中時代(4年間)体育の先生として女子体育も持ち、創作ダンスも教えた。2年目から持った・・・軍団だった男子バレー部が、3年目に県春季大会準優勝・県総体3位。このときのエースのYはM高校に進み高校の全日本に選ばれた。その後A大学に進み1部リーグのブロック賞を取る。抜群のセンスでキャプテンだったSは一浪して美大に合格。大学生活をエンジョイしていると聞く。また、セッターだったNは今、車に夢中らしい。(平成14年9月6日・Nの父親、Sの両親と久しぶりに会い杯を交わしました。)

その後、S中に転勤し5年間を過ごす(平成15年3月31日まで)。ここでも素晴らしい生徒との出会いがありました。顰蹙を買うのを承知でやった退任式での最後の授業。学年の先生が気を利かせてくれて、3年生だけ残してやってくれた私のお別れ会。全員の合唱を聞いたら、思わず涙が込み上げてきてしまいました。

そして、平成15年4月1日私はとうとう日本の真ん中にやってきました。

【平成13年6月、父が87歳でこの世を去った。それはあまりにも悲しい出来事でした。そして平成22年9月、とうとう母が父と同じ87歳で他界した。一週間病院に通い続けたが意識は戻らなかった。】

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