教師1年目・文集○○○に寄せて

校舎の4階から牛乳瓶やトイレットペーパーが降ってくる。トイレの便器が破壊されている。土曜の放課後は廊下を自転車が走り回る。先生が生徒に木刀や鉄パイプで追いかけ回される。階段は生徒の吐く唾や痰だらけ。音楽室のステレオやギターが盗まれる。職員室のラジカセや置いてあった物が、いつの間にか無くなっている。生徒が一生懸命に描いた絵を教室に張ったら、次の日の朝すべてバリバリにはがされている。タバコを吸っていた生徒を現行犯で見つけても「煙の出てる物が落ちていたので何だろうと拾っただけだ」としらばっくれる。新任の女の先生が殆ど一人で掃除をしていて、生徒は「俺達は給料を貰ってねー」と言って見ているだけ。年輩の先生が授業をしてると、黒板に給食で出たミカンが次から次へと飛んでくる。授業を抜け出し、風船をふくらませて遊んでいる茶髪の女子に、それは何だと聞くと「色つきのコンドームと答える。」等々・・・まだまだ挙げれば切りがありません。信じがたい光景が今でも脳裏に焼き付いている。この文章は、希望に胸を膨らまして、T中学校に赴任した教師1年目に、学校文集に特集として載せられたものです。はっきり書けない、具体的に書けない、本当のことを書けない苦しさを文章化しています。この文章の背景に信じがたい現実があったことを忘れないで欲しい。

新任の先生は語る  根本満

 T中学校の教員となってというより、教員生活の第一歩を踏み出してと書く方が、適当な題のように思われる。思えば高校二年の時、俺には体育の教師しかないと決心して以来、七年という年月が経過し、今現実の自分が、夢にも思わなかった理科の教師として滑稽な程、似合わない白衣などを着ている。運命のいたずらとでも思いたくなるような屈折を経て、とにかく教師になることができたのは幸運であったに違いない。

 さて、問題は自分が理想に描いていた風景と現実の中学校の風景との信じられない程の相違であった。否、理想に描いていたというより、自分の思い出となって残っている中学校時代の風景との比較と言った方が適切かも知れない。

 とかく、人々は昔を懐かしみ、あの頃は良かった、楽しかった。とつぶやく。苦しかったことも過ぎ去れば良き思い出となってしまうという記憶の楽天主義のせいでもあろう。本当は比較をする方が馬鹿げているのかもしれない。めまぐるしい社会の変化、生活環境の変化、その他諸々の変化が加速的に早まっている現代において、十年前の中学校と同じ風景を希求することは夜空の星がいくつあるか数えるのと同じことのようである。

 しかし、どんなに環境が変わろうとも、生徒の心にはそう大きな変化はないように思われる。ここで言う心とは、性格、性質といった言葉と類似のものと言ってもよいが、とにかく子供の本質的な性質といったようなものである。

 子供は皆んな伸びたがっている。子供は皆んな自分の可能性を信じ、それを大人たちに見出してもらいたがっている。子供は皆んな不安の塊で、確かな指針を欲しがっている。子供は皆んな成功によって自信をもちたがっている。そして、人間という動物は、どこかで、誰かに自分を認めてもらいたいと、切に願っている。子供特有の性質とすべての人間に共通した本能的性質とが混合して子供の心を形成しているのである。

 今という時代に生きる生徒は、未来という時代を築いていく主役である。つまり、今の中学生を見れば、未来の日本の明るさが何ルクスぐらいになるかある程度、予想もつくであろう。

 最近、同じ消費電力でも今までのものより、はるかに明るい螢光灯が出回っているようだ。私はこの螢光灯のような生徒を育てたいと願っている。同じエネルギーで同じものを見ても、同じことを聞いても、人一倍多くのことを感じとれる生徒を。そういう生徒の心の輝きが、将来の日本をきっと明るく照らしてくれると信じて。