反逆教師ネモトマン

理科教師として

それはまるで体育教師が、気合いを入れて理科を教えているようだ。何が何でも分かって欲しいという気持ちで授業をやる。時にムキになったり傲慢になったりもする。

自分がかつて生徒だった時代に、こんな先生がいてくれたらというイメージで授業をやっている。自分が面白いと思わないものは、生徒もつまらないだろうと思って、ユーモア命の授業をする。絶対に理解して欲しい場面では特に真剣勝負でやる。

テスト問題も
ユーモアのある問題を出す。点の取れない生徒にも配慮して、何か書けば必ず点が貰える問題を出す。それがボーナス問題の始まりです。また、誰もやったことのない授業を試みる。冬眠実験はカエルやトカゲを氷水に突っ込む。ダンゴムシの迷路実験で2時間つぶす。動物の生殖の勉強では、ウニやカエルなんてどうでもいい。肝心の人間という動物の生殖について5,6時間もかけて性教育をする。

生徒の一番苦手な電流は、日本全国で私だけがやっている?
ある工夫(それは秘密)によって、生徒が夢中にやっているうちに、自然と解くコツが分かってしまう。このように様々な工夫とユーモアで、理科好きが一人でも増やせたらと願っています。

*2016年、工夫の秘密を教えます。日本初の電流検定、略して「電検(でんけん)」というものを編み出しました。詳細はこちら電検とは?

根本満の科学通信

ふりカエれば ・ ・ ・ ・ ・生命(いのち


                 学校新聞に寄せて・市立M中学校教諭 根本満
 遠い日の思い出でありながら、つい昨日の事のように良く覚えている事がある。私は、悪ガキ軍団の一員として少し離れた田んぼまで自転車を走らせた。目的地に着くと胸はワクワク、ルンルン気分であった。さっそくズボンの裾を膝までめくり上げ、田んぼの中に入り、慣れた手つきで素早くあのにっくき奴らを生け捕りにした。
 楽しみを少しでも持続させようと、一匹でも多く捕まえることに血眼になっていた。近くで拾ってきた空き缶に十数匹は詰め込んだろうか。空き缶のふたがないので一生懸命手で押さえていると、敵もさるもの、必死に脱獄しようと私の手に、力の限りの跳躍で体当たりしてきた。私はその圧力を感じながらも可哀想というより、嬉しそうだった。

 いよいよ処刑の準備が整った。どんな罪を犯した訳でもない。私にどんな危害を加えた訳でもない。毎日、夕方になると一斉に鳴き出して、少しばかりの騒音になる程度のことである。それこそ善良な奴らである。
 しかし、生かす訳にはいかなかった。まずは、金属製の筒の中に下半身を詰め込んだ。そして、筒の下に爆竹をセットした。仲間の一人が火を着けた。ドカーンと煙とともに見事に吹っ飛んだ。大成功だった。今度は、直接口の中に爆竹を差し込み、身動きができないように石を背中に載せ、しっかり固定してから火を着けた。又々大成功であった。

 内臓破裂、胴体バラバラ、手も足もどっかに吹っ飛んでしまった。腸だか胃だか、とにかく長くつながった臓器が血まみれになって転がっていた。
 遠い小学校時代の思い出である。犠牲になったのは言うまでもなくカエルであった。今振りカエルと、よくもあんな残酷な事をしたものだと我ながら感心してしまう。
 私はあえてカエルの解剖を全クラスで行った。今の教科書ではカエルの解剖は必修ではない。カエルの解剖を通して生命の神秘、そして尊さを考えさせる。
カエルですらこんなに複雑な体のつくりをしていることから推して、人体の複雑さを実感させる。大半の生徒には単なる興味本位に受け取られてしまうのは、やはり健全な動物観、生命観が育っていないせいだと思われる。その責任の一端は、我々教師や親たちにあると言っても良いかも知れない。親や教師の無知や誤った動物観を子供に押しつけた結果かも知れない。

 私の遠い思い出として鮮明に残っているカエル虐殺の体験はいつしか真に生命の尊さを知る大人になるための必修科目だったように思える。
 爆竹でバラバラにして初めて知ったカエルの内臓の複雑さ。そして、流れる鮮血から自分と同じ血がカエルにもあることを知った。臓器を切り離してただ一つ心臓だけが残り、その心臓が規則正しく脈打つ光景を見て、生命力を、生命の神秘を感じる。切り開いた腹から流れる真っ赤な血を見て生命のはかなさ、怖さを知る。
 健全なる(?)カエル虐殺の体験ができなくなった子供にせめて経験させられるものは、この解剖ぐらいだと私は思う。生命の尊さは生命を奪ってみて初めて分かるということもあるのだと思う。人を殺すわけにはいかないので解剖に適したカエルさんに犠牲になってもらうのである。

 少し前の新聞に、中学校の理科の授業で猫の解剖をやった先生がいて、その話題が議論をよんでいた。カエルなら良いが猫の解剖は駄目だと誰かが決めた訳ではない。法律で禁じられている訳でもない。苦しい理由をつければ、ただ単に猫が人間にペットとして可愛がられている動物だということに過ぎないと思う。
 たまたまカエルが人の嗜好に合わなかったというだけである。カエルをこの上なく愛している人にしてみれば話は逆転するだろう。

 解剖の季節になると、昨日まで屈託のない鳴き声で合唱していたカエルの声に心なしか、哀愁が漂ってくる。気のせいだろうが、犠牲になってくれたカエルさんがうかばれるよう、子供達に命の尊さを身にしみて感じて欲しい。

今、冬眠中のカエルよ、許したまえ。

名前について考える(語源考)

 昔むかし、初めて「トンボ」を見た人は、羽が透き通っていてまるで棒のような胴体だけが飛んでいるように見えました。ある一人が「棒が飛んでる」と叫んだらもう一人が「飛ぶ棒だー」と叫びました。それを聞いていた第三の人が「トブボー」か・・・そうか、この虫をこれから「トブボー」と呼ぶことにしよう。・・・こうしていつしかトンボという名前になり広まっていきました。

 田畑を耕してくれるミミズは日光を嫌います。また、目が見えません。つまり日を見ないから「日見ず」目が見えないことから「目見えず」でヒミズかメミエズが変化していつしかミミズになったと考えられています。

 我々にとって最も身近な動物である「ネコ」と言って頭に浮かぶのは、好物のネズミ(最近の猫はネズミをとらなくなっているが)か、いつもゴロリと寝ている姿だと思います。つまり「ネズミを好む」「寝るを好む」あたりがネコの語源になっているようです。ネズミのネ、寝るのネと好むのコが残ってネ・コと結びついたという説があります。

 スミレの花といえば、ふつう紫色の花で非常に趣がある花です。この語源が大工さんの使う墨入れからきていると聞くと少し興ざめするかも知れません。スミイレとは、大工さんが昔から線を引くのに使っていた道具のことで、咲き始めの頃、横から見ると花の形がよく似ています。勿論これは、一つの定説にしかすぎません。

 下痢どめの薬草で有名なゲンノショウコという植物は、葉を煎じて飲むとその場で効いた証拠が現れるというので、現に証拠があるだろうと言う意味で「ゲンノショウコ」という名前になったと言われています。このように名前の由来を考えることがいかに楽しいかわかるでしょう。

 
名前について考える(語源考)その2

 語源考その2は、植物名の由来特集です。最初にタンポポについてです。花のあとの綿毛を、タンポ(綿を丸めて布や皮で包んだもの)に見たてて付けられたといわれます。タンポは稽古用の槍の先に付けたり、拓本をとるとき墨を付けるのにもちいます。また、花を横から見たときの形が鼓(つづみ)に似ているので、鼓のタタンポポンという音を連想した名前という説もあります。タンポポの花茎で鼓をつくることから、鼓(ツヅミ)草とも言うあたり名前の由来に関係がありそうです。

 ナズナのことをペンペン草と言います。よく誤解されているのがペンペン草の果実(ハート型の葉に見えるもの)をむいて振るとペンペンと音がするのでこの名がついたというものです。どう聞いてもペンペンとは聞こえず、シャリシャリがせいぜいです。本当はハート型の果実が三味線のバチに似ていることから、三味線の音色ペペンペンペンを連想してついたといわれています。余談ですが「バチがあたる」という言葉がありますが、悪いことをして三味線のバチが足のすねにでも当たっていい気味だというのでしょうか。

 4〜6月に道ばたに咲くカラスノエンドウは、スズメノエンドウに比べて、花や葉っぱが大きいところから対照して付けられた名前です。スズメとは小さいという意味でエンドウはエンドウ豆に似ているところからつけられました。また、一説には実が熟すと真っ黒になるのでカラスを連想して、カラスノエンドウになったともいわれています。

 このカラスノエンドウ、スズメノエンドウを知っている人は結構いますが、このふたつのちょうど中間的な植物の存在は、千人に一人ぐらいしか知りません。カラスのカとスズメのス、そして中間の間をつなげてカ・ス・間・草と名付けられました。カスマグサはふつう花が二つずつ、カラスは一つ、スズメは白い小さな花が沢山つくことからも区別できます。

 先日、1年生で採用する新しい理科の資料集の写真を見たら、この「スズメノエンドウ」の写真が「カスマグサ」になっていました。早速出版者に連絡し、訂正するように話しました。最初は間違いを認めようとせず、変種が多いと言ってごまかそうとしていました。私が絶対に違うと言い張ったらやっと写真を撮り直すと言ってくれました。後日、正しい写真が送られてきました。


学年通信新年号に寄せて

早春の野原で、土から筆のような形をした植物がニョキニョキ出てくる。だから土筆と書いて「つくし」と読む。この土筆の頭から緑の粉が吹き出る。これが胞子である。顕微鏡下で息を吹きかけると、あたかも火星人がフラダンスをしているようだ。つくしとスギナの関係すら正しく理解している人は千人に一人もいないかもしれない。

自惚れた巨人とかいう球団の、新人王に輝いた投手が「雑草魂」と言って、流行語大賞に選ばれた。「雑草」とは何だ。自分が名前の知らない草はみな雑草である。ならば、自分の無知をさらけ出している言葉が「雑草魂」である。今時、名も無き草などありはしない。踏まれたらすぐに枯れる雑草も沢山ある。「オオバコ魂」ならまだわかる。私に言わせれば自分の無知をさらけ出した「オオバカ魂」である。

S中の新3年生には「オオバカ」になってほしくない。だから私は今年も訴え続ける。「真実を知れ」と。今年も宜しくお願いします。   

簡単に見つかりません!春の七草のホトケノザ

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