反逆教師ネモトマン

担任として

部活動顧問の私は鬼である。部活動は教師にとって義務ではない、ボランティアである。給料にも関係ない。一方、担任の私は優しい。甘いとは違う。
私は担任をして、理科を教えて給料を貰っている。やる気がない奴はやめろとは言えない。どんな生徒も面倒を見なければならない。全ての生徒を少しでも成長させなければならない。その点では厳しい。道徳、学活もいい加減に出来ない。決して雑用や遊びの時間ではない。遊びに見えても他の先生のそれとは大いに違う。席替えをして終わってはいけない。教えることは無限にある。親の理解を得るために、
学級通信にも力を入れている。

ユーモアは最大の恕(おもいやり)


 私が今までに教わってきた(実際は何も教わっていない場合が多いが)教師を思い浮かべると、ユーモアの無い顔が次々に浮かんでくる。特に高校の教師はよくもこんなにつまらない事を平気で言えるな、と感心するばかりであった。思い浮かぶ顔はどれものっぺら坊で、一体何を考えているのか皆目見当がつかなかった。人間がつまらないから、言う事もつまらない。人間が浅いから言う事に深みが無いのかもしれない。

 定年間際で、生徒からお茶の水博士と、ハゲ増されていた物理の教師は、ただでさえ難しい物理を一層難しく教えてくれた。暗号のような公式を羅列して、「物理は難しい」という事を教えてくれた。そういう意味での教師、反面教師であった。少しでもユーモアを交えて教えてくれたら、私は物理が少しは好きになっていたかも知れない。
 また、一年の時の担任は、私がユーモアのつもりで言ったり、した事を“悪ふざけ”としてとがめ、私を目の敵にしていた。こうした経験がいつしか怒りとなって膨らみ、ユーモアの無い(解らない)人間は、他人に対して思いやりが無いという結論に達したのである。“ユーモアこそ最大の思いやり”ということが身にしみてわかってきた。ユーモアの無い大人・ユーモアの解らない教師によって子供の心は虐殺されていく。

 ところで、日本人は真面目だからユーモアがないというのは嘘である。むしろ、真面目でなければ真のユーモアは生まれない。ユーモアは優しさである。ユーモアは一つの文化である。“人類が進化の過程で獲得した『文化遺産』としての笑顔”を引き出すのがユーモアである。笑いのある所に争いはない。人間ほど顔面に、笑顔を作るための筋肉が発達した動物はなく、人間以外の動物に厳密な意味での笑顔はない。サルが歯をむき出して笑っているように見えても人間のそれとは全く違っている。
 今日に生きる子供達に、ぜひともユーモアのある大人になってもらいたい。何よりも、“ユーモアこそ最大の恕(おもいやり)”なのだから。

H13年度のネモトマン学級の紹介

偉人の言葉・オリジナル名言集

道徳や学級活動の中で、心の支えになるような名言・ことわざ・格言を紹介しています。私が過去に教わった先生達は、バカの一つ覚えのように「やればできる」と言っているだけでした。世の中にはこんなにすばらしい言葉が山ほどあります。先生は子ども達に教える義務があります。

卒業生に贈る言葉  

未来に羽ばたく君たちへ

こだわりの合唱コンクール

道徳・学活資料

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