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反逆教師ネモトマン

ユーモアは最大の恕(おもいやり)

 私が今までに教わってきた(実際は何も教わっていない場合が多いが)教師を思い浮かべると、ユーモアの無い顔が次々に浮かんでくる。特に高校の教師はよくもこんなにつまらない事を平気で言えるな、と感心するばかりであった。思い浮かぶ顔はどれものっぺら坊で、一体何を考えているのか皆目見当がつかなかった。人間がつまらないから、言う事もつまらない。人間が浅いから言う事に深みが無いのかもしれない。

 定年間際で、生徒からお茶の水博士と、ハゲ増されていた物理の教師は、ただでさえ難しい物理を一層難しく教えてくれた。暗号のような公式を羅列して、「物理は難しい」という事を教えてくれた。そういう意味での教師、反面教師であった。少しでもユーモアを交えて教えてくれたら、私は物理が少しは好きになっていたかも知れない。
 また、一年の時の担任は、私がユーモアのつもりで言ったり、した事を“悪ふざけ”としてとがめ、私を目の敵にしていた。こうした経験がいつしか怒りとなって膨らみ、ユーモアの無い(解らない)人間は、他人に対して思いやりが無いという結論に達したのである。
“ユーモアこそ最大の思いやり”ということが身にしみてわかってきた。ユーモアの無い大人・ユーモアの解らない教師によって子供の心は虐殺されていく。

 ところで、日本人は真面目だからユーモアがないというのは嘘である。むしろ、真面目でなければ真のユーモアは生まれない。ユーモアは優しさである。ユーモアは一つの文化である。“人類が進化の過程で獲得した『文化遺産』としての笑顔”を引き出すのがユーモアである。笑いのある所に争いはない。人間ほど顔面に、笑顔を作るための筋肉が発達した動物はなく、人間以外の動物に厳密な意味での笑顔はない。サルが歯をむき出して笑っているように見えても人間のそれとは全く違っている。
 今日に生きる子供達に、ぜひともユーモアのある大人になってもらいたい。何よりも、
“ユーモアこそ最大の恕(おもいやり)”なのだから。

 まじめ腐った
大人、そして教師。小中学校時代、みんなを笑わそうと、一生懸命に考えて冗談を言ったら「ふざけるな」と怒られて正座をさせられた。友達のおばあちゃんが、バスに酔ったら梅酒をちょこっと飲むと治ると言ったので、その友達の水筒の梅酒をちょこっともらって飲んだら、酒を飲んだと言って、寒い廊下で長時間正座をさせられた。
 
 冗談やユーモアの分からない大人や教師は子どもの心を虐殺していく。理想の教師とは勉強ができて、ひたすら真面目な教師なのか?冗談じゃない。そんな教師を誰も望んでいない。(くそ真面目で冗談も言えない、ユーモアも分からない生徒は、くそ真面目な教師を望むかも知れないが。)

 私は水谷豊の熱中先生や、武田鉄矢の金八先生、森田健作の「俺は男だ」そして中村雅俊の「我ら青春」などの影響を十分に受けました。しかし、自分の夢を実現させて教師になった今では、テレビを見るとあまりにも滑稽に見えたりします。金八先生のドラマのような絵に描いたような事件や場面は少ないが、私の教員生活でも、ドラマティックな出来事、感動が沢山ありました。その主役を演じているのは紛れもなく「生徒」なのです。

 そしてその「生徒」を生かすための教師の役割には、テレビドラマより遙かに高度で、目に見えない魔法のような要素もあります。私の尊敬する大村はま先生の「仏様の指」のようなことができる教師こそが理想の教師なのだと思います。
 
 そんなことで私のような教師も、世の中にはいるのだということを知ってもらいたくてホームページを作ることを決心しました。一人でも多くの人に、共感してもらえたら嬉しく思います。


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