反逆教師ネモトマン

部活動顧問として

部活動顧問の私は鬼である。部活動は教師にとって義務ではない、ボランティアである。給料にも関係ない。しかし、生き甲斐である。希望入部制の今日、やる気の無い生徒はやめればいい。だから、私は部活動には厳しい。その代わり、やり通したら絶対に後悔させたくない。たくましい人間にする。

私は小さい頃、よくチビとバカにされた。それ以来、自分より背の大きい奴には勉強も運動も負けてたまるかと思うようになった。負けず嫌いな性格が今までの自分を支えてきた。

貧乏人の5男坊として生まれ、兄と殴り合いの喧嘩をしたお陰でハングリー精神が身に付いた。「俺のようなチビでも背のでかい奴には負けない」「いつか俺をバカにした奴らを見返してやりたい」「高校のくず教師に、自分が熱血教師になることで復讐したい」

生徒達に「やればできる」ということを教えたい。こうしてチビの私が一番不利なバレーボールを始め、教師になって生き甲斐としての部活動に情熱を傾けた。

私と部活動(PTA新聞に寄せて)

「一人の結婚した男の中に男、夫、父の3つの要素があるとしても、その中では男の要素が一番強いのだ。男が夫か、父になるまでには女と違って、かなりの時間のかかるものなのである。それに比べて、普通女は妻になり、母になるのは、まるで水が低きに流るるがごとく滑らかである。」これは遠藤周作が言った言葉である。例にもれず、私も今だに父になった実感はほとんどない。
 昭和58年4月、T市のT中学校に私は新採用教員として赴任した。そこで新設してもらった男子バレー部が、1年生1人と、どこも行き場のない3年生5人という悲惨な状況の中で、半年で廃部となった。

 バレーボールは女だけのスポーツではない。男らしい魅力あるスポーツだと訴えても、生徒は見向きもしてくれなかった。心の底から男子バレーがやりたいと願い、M中に運良く転任することができた。いつつぶれるか分からないという有り様だったが、そこにはちゃんと部員がいた。バレーがやりたいという生徒がいた。私は希望に胸を膨らませた。

 最初にもった3年生は7人いたが最後まで残ったのは3人だけであった。その3人と手ぶらで撮った卒業アルバムの写真を今でも大切に持っている。それから4年目の昨年11月、県新人大会で優勝し、1か月後に結婚した。今年の8月には関東大会そして全国大会に出場することができ、1か月後、長女が生まれた。自分の運の良さに困惑する一方で、遠い日に思いを馳せる時、込み上げる熱いものを感じた。

 妻は私が何かの大会で優勝して持ってくるトロフィーやカップより、本当はショートケーキひとつのお土産を喜び、全国大会出場で新聞に私のコメントが載ることより、お風呂にバスピカを入れ忘れることなく、翌朝しっかり洗ってくれることを望んでいると思う。
 部活未亡人とか母子家庭とか冗談で言う人がいるが妻や子供にしてみれば冗談では済まされない。日曜も祝日も、妻と子供をほったらかして試合に出かけていく。「いってらっしゃい」と妻は作り笑顔で見送ってくれ、乳飲み子の泣き声が空耳だろうか「お父さんなんか死んじまえ」と聞こえてくる。今、理解してもらえなくても良い、いつかわかってもらえれば良い。それはまるで教育のようだ。

 スポーツにおいて、自分の性格の弱さを暴露され、逃げ道がふさがれ身が震えるような経験をする。その壁を乗り越えたとき、子供は大人には信じ難い勢いで成長し、本物の自信をつかむ。生き生きとした輝きのある顔になっていく。私は部活動の指導を通して、子供達の人生に深く関わっていると思っている。

 もしも、夢中になるものを失い、本気で怒れなくなったら、私はすぐに老け込み、子供にとって全く魅力のない教師や大人になってしまうと思う。だから、都合のいい言い訳だが、魅力のある教師、父親になるために今、熱中できるものに全力を傾けるのである。

 孤独を噛めしめながら。  

バレーは思い出の宝石箱    S・H(バレー部保護者)
「お父さん、僕バレーボール部に入部するよ」と、ある日突然宣告された。小学校3、4、5、6年をあんなにもサッカーに集中してきたのに。なぜ?考えられなかった。まさかバレーのような軟弱な部活が、と頭をかけめぐった。もう少し考え直してくれ。4月、5月、6月が経ち根本先生にも話した。サッカーをするためにももう少しバレー部で練習して、部活変更させてもらうかと思いますが・・・。根本先生も「本人次第だと思いますが、Y君は『バレーは楽しい』と言っていますよ」この先生の言葉をお聞きした後にも、問うてみた。「なぜバレーなのか」「バレーは僕、楽しいよ」「やっていてとても楽しい」の返答だった。息子の気持ちに、父親として胸に熱くなるものがあった。(バレーは楽しい・・・)

 いつも二人の間にはルールがあった。本当に好きでやるものならば、最後まで頑張る勇気。それができるなら一生懸命応援する。食らいついたらあきらめるんじゃないが条件だった。ある雨上がりの日曜の朝、家内に誘われてM中の体育館をそっとのぞきにいこうということになった。私達二人は、恐る恐る体育館に近づき、重い体育館の扉ごしに罵声が走るのが、近づくにつれて大きく聞こえてきた。まさかバレー部では?と顔を見合わせていた。いや扉を開けて中を覗いてみないとなんとも言えない。怖々重い扉に手をかけてゆっくりと開けてみた。突然一つの白いボールと、おはようございますの挨拶が、私達めがけて飛んできた。それは紛れもなくバレーの4号ボールだった。私は一瞬自分の目を疑った。こんなスポーツの世界があっていいのか、それは汗と感動のシーンだった。紛れもなく、我が息子のボールに向ける真剣な眼差しがあった。

 私にも幾つかのスポーツとの出会いがあったが、こんなにも汗にまみれ、激しく燃える六人の熱気がまさに今伝わってくるスポーツがそこにあった。「バレーは楽しい」いやまさに根本監督のもとバレー部員が熱い白球を追う様は、信頼と愛情にあふれ若い力の結集を見た思いがした。いや私を魅了していた。そして本当にお疲れさまでした。私は、息子、バレー部員、根本監督、保護者、学校関係者、相手チームのすべての人にお世話になり感謝しています。興奮と感動の三年間本当にありがとうございました。
                     (PTA新聞に寄せて) 

 市バレー協会記念誌に寄せて(上の記事と内容がダブります。)
 昭和58年4月、T市のT中学校に私は新採用教員として赴任した。そこで新設してもらった男子バレー部が、1年生1人と、どこも行き場のない3年生5人という悲惨な状況の中で、半年で廃部となった。
 バレーボールは女だけのスポーツではない。男らしい魅力あるスポーツだと訴えても、生徒は見向きもしてくれなかった。心の底から男子バレーがやりたいと願い、昭和61年M中に運良く転任することができた。いつつぶれるか分からないという有り様だったが、そこにはちゃんと部員がいた。バレーがやりたいという生徒がいた。私は希望に胸を膨らませた。しかし、当時サッカー、バスケット全盛のM中では男子バレー部は吹きだまりの弱小チームだった。
 
 最初にもった3年生は7人いたが最後まで残ったのは3人だけであった。その3人と手ぶらで撮った卒業アルバムの写真を今でも大切に持っている。それから4年目の平成2年11月、県新人大会で初優勝。翌年8月には関東大会そして四国松山での全国大会に出場することができた。平成4年は県総体初制覇、関東大会3位で九州都城での全国大会2年連続出場。平成5年8月の関東大会ではこの年全国制覇した神奈川の相陽中に負けはしたがフルセットの大接戦を演じた。そして、平成6年県春季大会で3連覇。これが通算6度目の県制覇であった。
 
 バレーボールにおいて、自分の性格の弱さを暴露され、逃げ道がふさがれ身が震えるような経験をする。その壁を乗り越えたとき、子供は大人には信じ難い勢いで成長し、本物の自信をつかむ。生き生きとした輝きのある顔になっていく。私は部活動の指導を通して、子供達の人生に深く関わっていると思っている。そして今、M中の生徒達と出会えたことを誇りに思う。

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