ことばの移り変わり  大村 はま

「しゃべる」「がんばる」

 ことばというものは生き物で、本当に移り変わると思います。私の生きてきた何十年かの間にも、はっきり変わってきたことばがあります。その一つは「しゃべる」ということばです。「しゃべる」ということばは、今「お話しする」というような意味になっていて、テレビなどでも、「これからこのことについて、おしゃべりをいたします。」とか、「この前もおしゃべりいたしましたこと・・・」とか、そういうふうに「お話します」という時に「しゃべる」って言っていると思います。

 私の子供の頃には、「しゃべる」というのは、それだけでも悪いことばでした。話しすぎる、うるさい、そういうふうな意味です。ペチャクチャペチャクチャ言うとか、とにかくあんまり話をしすぎると言うことで、いい意味はちっともありませんでした。「雄弁」なんていう意味でもないんです。「おしゃべり」なんて言われたら、たいへん恥だったと思います。

 それが今、普通の「話す」という意味に変わったこと、私の気分としては、なかなか納得がいきません。ですから人がテレビなどで「今ここでおしゃべりしたことは」とか「何何について少しおしゃべりさせていただきます」なんて言いますと、やっぱり違和感があります。とけ込めないような、おやっというような、そういう気持ちがします。どうしても、小さい時に覚えた感覚までも変えることができないのです。自分ではどうしても「お話する」というところに「おしゃべり」ということばを使うことができません。

 もう一つ、そういうことばがあるんです。私たちがよく叱られたことばで、それが今は、ほめことばになったという、・・・「がんばる」です。
 「がんばる」ということばは「しっかりやる」という意味ですね。「がんばりなさい」とか、「がんばります」とか、そういうふうにことばを交わすことが多いでしょう。「もう少しでできるんだから、がんばらなければ。」とか、それから、選手などを励ますときにも、「がんばれ!」、成績表を見ながら「もう少しがんばるといいね。」「はい、がんばります。」そういうふうに、自分の覚悟を表して、しっかりやる、という意味でしょう。「あの人はがんばる」って言ったら、それは感心してるのではないでしょうか。

 ところがです。私の子供の時には、そうではありませんでした。それは、良くない意味でした。押し通してはいけないことを、むりやり押し通そうとする、強情を張る、そういうふうな意味なんです。「あの人ががんばるから困るんだ。穏やかにいくところを、どうしてもあの人が一人でがんばるんだもの。」こういうような言い方です。「正しくないことはないんだけれども、あそこまでがんばるとやっぱり反感持つね。」とか。

 私も母から「がんばるものではない。女の子は特にそう。がんばってはいけない。」と、何度さとされたかわかりません。ですから「がんばる」っていうことには罪悪感のようなものがあります。悪いことってしみついています。やめなくてはいけないことの、まあ、仲間に入っていることでした。

 ですから私は今でも、「がんばる」ということばを自分からは使いたくはありません。皆さんにも「さあがんばって」と言わないのに気づいていますか?「しっかりやる」とか「よくやる」とか「終わりまでやる」とか、そんなふうに他のことばで言っていて、私はどうしても皆さんに、「がんばりなさい」というそういうことばが出ないのです。

 三つ子の魂みたいに、「がんばる」ということを恐れる気持ちを持っているのです。とにかくそれは、言われたら悲しいことばだったのです。ことに私たち女の子にとりましては、「がんばり娘だ」って言われることは、本当につらいことだったんです。それが今は人を励ますことばになり、「あの人はがんばりがある」と言われれば、ほめたことになるとは、本当にことばは移り変わるものだと思います。