ちょうどの学習が教育では最も大切

      公文教育研究会会長 公文 公

 私は、「子供の学習には、ちょうどのことが与えられるべきである。子供が勉強嫌いになるのはちょうどのことが与えられてないからである。ちょうどのことが与えられると、子供は喜んで勉強する」そして、喜んでする学習を積み重ねていくことによって「学年を越えて進むことができる」ということを強調してきた。

 子供が勉強嫌いに変身していく原因の一つに、学校教育における一斉授業の欠点がある。学校の先生は、どんなに学力差があっても、どこかに焦点を当てて一斉授業をしなければならない。一人一人に対して、その子にとって必要な「ちょうど」の内容を与えることができないのです。わからなくなった授業を一時間近く聞いていることほど、子供にとってつらいことはないでしょう。最初は辛抱していても、自分にとってちょうどではなく、ちっとも楽しくないことに対しては、いつまでも辛抱できるはずがありません。

 こうして「楽しくない」ことが「嫌い」につながり、「嫌い」になると、ますます「できない」という悪循環が始まってしまうのです。わが子に対して「ちょうど」の内容を学習させることがいかに大切か、そして、「ちょうど」の学習が「嫌い→できない」の悪循環を断ち切り、楽しく学年を越えて進むことのできるいかに優れた学習法であるかを私は訴えてきた。

 「ちょうどのことが与えられると学習好きになる」ということは、言葉で聞けば何となく当たり前のことのようですが、実践してみないことには実際なかなかわかりにくいようです。生徒は先生に「その教え方では私には分かりません・・」とサインを出して教えてくれているのに、先生にそれを受け止める気持ちと能力がないと、少しも気づきません。
 世間一般の教育は、生徒に教えられることが大切だということをあまり考えようとしないため、ちょうどを追求することがほとんどなされていません。例えば、ある子供にとっては3+2=がどれくらい難しいか、それより13+1=の方がどれだけ楽かというようなことでも、ちょうどの追求をしてみないことには気づきにくいことなのです。このようなことに気づかないままに指導すれば、子供はもともと本当に学ぶことが好きだという大切なことにも気づきにくいものなのです。

学年にこだわる親の態度こそ問題
 同じ小三といっても、能力はまちまちです。例えば、九九を習うのは小二の時ですが、同じ授業を受けても、どんどんマスターしていける子供がいる一方、なかなか覚えられない子供もいます。同じことをマスターするにも、三回練習すればできるようになる子供もいれば、十回、二十回の練習が必要な子供もいるのです。
 さて、その子供にとって必要な九九の練習を不足したまま小三になった子供も、小三だからという理由だけで二桁どうしのかけ算や、さらにはわり算に進んでいかねばなりません。その子供にとって、そんな算数の学習は楽しいでしょうか。その子供は小四、小五と学年だけは進んでいきます。九九も十分に身につけないまま中学生、高校生になっていくという例さえあります。

 わが子の本当の幸せを望むなら「小四にもなって、一桁のたし算や引き算を勉強しなくてはならないなんて、情けない」などと、学年にこだわるのでなくて、今のわが子にとって今一番必要なことを学習させてあげるのが、何よりも大切な親の務めであることを理解していただきたいのです。
「どうしてできないの?」よりも
「どこならできるか」を発見することが大事
 子供のテストの結果を見て、つい「どうしてこんなことができないの?もっとしっかり勉強しなさい」などといいがちな親がいます。そして「いつも口を酸っぱくして、勉強しなさいと言っているのに、ちっとも成績が上がらない」と嘆かれます。子供が「わからない」といったとき、多くの場合は、自分が「どこがわからないのかがわからない」という状態なのです。
 ですからまず「どこまではしっかりわかっているが、どこからがあいまいになっているのか」を見極めてあげることが第一です。そのポイントがわかれば、今わが子に何を学習させればいいかが、はっきり見えてくるはずです。
学習意欲を起こさせるには、やさしいところを沢山させて「できる」喜びを体験させることです。
 小五だからといって、小一生がやるようなたし算や引き算を学習するのは、恥ずかしいことなのでしょうか。無駄なことなのでしょうか。周囲の偏見やからかいさえなければ、子供は本来、自分が楽にすらすらできることには喜んで取り組みます。この段階で「楽にできる」「どんどんできる」体験を積み重ねることによって、「もっとやりたい」「次の段階に進みたい」という気持ちを持たせることができます。そして、いったんこの気持ちを持った子供なら、次の段階を的確に与えてやるだけで必ず順調に伸びていけるのです。

一斉授業では必ず落ちこぼれが出る
 小六の悦子さんは、いわゆる「落ちこぼれ」(使いたくない言葉ですが)と言われた生徒でした。小三の一学期から成績は、三段階の1ばかりでした。勉強に自信を無くし、明るさが失せて、外で遊ぶことも少なくなり、家でテレビやゲームにかじりつく毎日でした。お母さんは、悦子さんを小三の夏休みから、補習を主体とする学習塾に通わせました。しかし、五ヶ月通っても、いっこうに学力が向上したようすが見えません。
 悦子さんに聞くと、「学校も塾も、わからないうちに授業がどんどん進んでしまう」というのです。このように、学校で落ちこぼれた子が塾に行っても、同じような一斉授業を受けていたのでは事態は良くなりません。

 一斉授業ではその子にとって「どこまでがわかっていて、どこからわからないのか」「どこまではきちんとできるが、どこからがあいまいなのか」といったことを個人別に対応することがほとんどできません。これは少人数をうたっている塾でも同じです。
 また、授業を聞くことが中心では、「自分で読んで理解して、考えて書いて問題を解く」という体験ができにくく、学力が定着しにくいのです。
 その後、悦子さんに「ちょうど」の問題を与え、自力で解き続けるように導いてあげることによって学力が伸び、何より自信をつけることに成功しました。何より変わったのは悦子さんの性格です。「元気で積極的になり、学校でも手を挙げて答えられるようになりました。イキイキとした、笑顔の多い子になりましたね」とお母さんは語っています。

丁寧に教えても力がつかないのはなぜ?
 世間では、勉強ができるようになるには、「丁寧に教えてもらうことが大切で、先生の教え方が微に入り細をうがったものであれば成績が上がる」と思われているようですが、これは大きな誤解です。学問は教わるだけでは身につかないのです。
 真人君は成績がかんばしくなく、お母さんが心配して一流大学生の家庭教師をつけました。その大学生は、問題を丁寧にかみ砕いて説明してくれ、真人君はそれを「うんうん」と聞きながら、納得している様子。ノートに書き留めています。お母さんは「いい先生が来てくれた」と喜びました。

 しかし、一年近くたっても成績はさっぱり上がらず、大学生の方から家庭教師を断ってきました。なぜ成績が上がらなかったのでしょうか。それは、教わっただけで真人君が満足してしまい、自分から問題に取り組もうとしなかったからです。できない問題にぶつかっても、考えるのは家庭教師で、真人君はもっぱら説明を聞くだけ。これでは、実際に自分で問題を解こうとすると解けないのです。

 実力をつけるには、自分の力で一定量の問題を解かねばなりません。とはいえ、それができないから成績不振なのですから、やみくもに問題に取り組んでもできるわけがありません。
 対策はただ一つ、自分がスラスラできるところに戻って再出発し、徐々にレベルを上げていくことです。そして、新しい内容に入るときも、最初からいちいち教えてもらうのではなく、知っていることと比べたり、例題をよく読んで理解し、それをまねるなど、自分の頭で考えてみることです。