ユーモアに乏しい日本人  松山 幸雄

 日本人がユーモアを軽くみすぎている点は、いくら声を大にして警告してもしすぎる事はないと思う。昼食会や夕食会後のスピーチで、二度や三度、聴衆をどっと笑わせる工夫がなければ、悪いことはいわないから、アメリカ人相手のスピーチはやめておいた方がよい。自信がないときは「スピーチとスカートは短いほど良い」という諺を思い出すこと。
 自称「国際派」の日本人政治家、財界人、役人、学者も、この点では多くの場合落第という現場をどれだけ目撃したことだろう。毎年朝日講堂で行われる外国人留学生による日本語弁論大会をのぞけば、ユーモアのないスピーチなどというのはありえない、というのがよくわかるはずだ。日本語というのがこんなに楽しいものであったか、と思うほど、彼ら日本語をしゃべる外人は聴衆を楽しませてくれる。

 ニューヨークにいたとき、近所の中学校の生徒会委員の選挙風景を見学したことがある。立候補した生徒が三分間ずつ「政見」をスピーチする。生徒の最大の関心事はテニスコートなどスポーツ施設の拡充らしかった。ある女生徒候補が「将来われわれの中からビリー・ジーン・キングやクリス・エバート(いずれも女性テニス第一人者)がでない、と誰がいえるか」と教員席の方をはったとにらんだら一同大爆笑。結局、その女生徒が当選したが、先生は「あの一句が決め手になったですね」。

 アメリカの政治家や国連外交官は、自家制のジョーク集を一ダースぐらい用意して、状況に応じて使い分ける。歴代大統領は、たいていギャグ専門のライターを抱えている。「私はリンカーン(高級車)ではなくフォード(大衆車)だ」(フォード元大統領)といった文句をひねり出すのだ。
 日本人だと、他人を笑わせることに気を使うことなどくだらん、と軽蔑してしまう(そのくせ、仲間うちでしか通用しないようなだじゃれは結構好きだ)が、国際社会では、初対面の人を笑わせる(楽しませる)技術は、必要欠くべからざるものなのである。
 そうしておいて、肝心の時に、ずばっと「ノー」と言う。日本人は逆で、明るい空気をつくれずにいて、それでいて、断固拒否すべき時に「ノー」と言えない。