教育できることとできないこと
       日高 敏隆「動物はなぜ動物になったか」より

記憶するのは忘れるため?
 「基礎」の教育が問題にされるのは、適当な方法で教えれば基礎的知識は教えることができるという信念が根本にあるからだと思うけれど、そうやって教えた生徒が、教えたはずのことを実は何一つ記憶もしておらず理解もしていなかったという、ガックリくるような屈辱的体験は、ほとんどすべての教師がもっているだろう。多少違いがあるとすれば、教師によって、あるいはむしろ教師の精神的若さによって、それを自分自身の責任と感じるか生徒の責任にしてしまうかだけのことである。

 けれどよく考えてみると、これは誰の責任でもないのかもしれない。記憶するということは、本来忘れるためのものなのであり、それが人間の脳のもつ一つの優れた性質なのだからである。たとえば、われわれがある映画を見たとする。そこにはタイトルから始まってストーリーとともに展開する無数の映像がある。われわれはそれを見ていきながら、次々とストーリーを追ってゆく。最後に見終わったとき、われわれには、「ああ、すばらしかった」とか「つまらなかった」とかいう印象が残る。

 すばらしかったという場合でも、われわれはそのシーンをすべて覚えているわけではない。主人公の後ろの壁にどんな絵がかけてあったか、どんな模様のじゅうたんであったか、そんなところは忘れているのがふつうである。そのかわり、われわれはストーリーを覚えている。だが、時間がたち、その他の映画やテレビを見てゆくうえに、それぞれのディテール(詳細)はどんどん忘れていって、主要なすじだけが記憶に残る。もしわれわれが、毎日目にしたものをすべてはっきり記憶していたなら、われわれは気が狂ってしまうに違いない。あるいは結局何一つ記憶できないかもしれない。忘れるのは記憶するためであり、記憶するのは忘れるためなのである。

 いずれにせよ、人間の頭は本来忘れるようにできていて、よほどのこと以外は覚えない。だから、生徒が教わったことを忘れるのは、人間らしいことであって、けっしてとがめるべきことではない。もし何もかも覚えている生徒がいたら、むしろ君はコンピューター的すぎるぞといって警告こそすべきであって、記憶をほめるべきではないのかもしれない。