花 を 愛 す る 心    中村 浩

 
牧野富太郎先生の句に「草を褥(しとね→布団の意味)に木の根を枕、花に恋して九十年」というのがあるが、牧野先生は本当に花を愛しておられたと思う。先生は、花を細かく観察し、その仕組みの巧みさに感嘆の声を発せられ、いつも“自然は巧緻にして完璧だ”ともらしておられた。先生は花を愛されたといっても極めて広範囲で、その観賞は雑草の小さな花にまで及んでいた。
 花の美しさを知る人は多いが、花の仕組みにまで目の届く人は少ないであろう。しかし、本当の花の美しさは、外形だけではなく細かい構造にもあると思う。ランの花などは花の仕組みを知っていなければその面白さはとうてい理解できないであろう。

 花というものは、元来人間の目を楽しませるために咲くものではなく、生殖の目的で咲くものである。つまり子孫維持の大目的のためにである。花は科学的には生殖器にほかならない。

 花が実を結ぶためには、雌しべの柱頭に花粉がついて受粉が行われなければならないが、この花粉の運搬は昆虫の媒介によることが多い。このため虫媒花では、昆虫の気を引くために美しい花弁で着飾り、香りを発し、甘い蜜まで準備する。花粉が風によって運ばれる風媒花では、花の装いは極めて地味で人目を引くことはないが、これは美しく着飾る必要がないからであろう。

 園芸が盛んになると、人間はより美しい花を人工的に作り出そうとし、異種間の交配などによって新しい品種を数多く作り出すようになった。八重咲きの花などは人工的に作り出された典型的のものであろう。八重咲きの花には雄しべが花弁に変化したものが多いが、雄しべが花粉をつくる機能を失っては、花そのものの使命である結実を行うことができなくなる。
 人間は全く勝手なもので、自分の目を楽しませるためには自然の摂理をねじ曲げてでも改良を試みてきた。このため草花は、野生のものとは比べものにならないほど立派で美しく、色彩も豊富になったが、花自身にとっては、奇形や不具にされてしまったわけである。

 欧米では園芸草花を観賞し、野生の花はなおざりにされているきらいがあるが、日本人は野の花の美をもよく知っていると思う。真に花の美しさを知るには野の花の美しさをまず知らなくてはなるまい。

 さて花を愛する心は、美女に魅せられるのと同じく、人間性の奥底に潜んでいる美の意識の現れであって、人間的な、最も人間的なものの一つであると言えよう。
 人間以外の動物は、人間に近いゴリラやチンパンジーのような類人猿であっても、花を手にして眺めて楽しむということは全くない。小鳥でも蝶でも花園を好んで飛び廻ってはいるが、これは食料である虫を探したり、花の蜜を求めているのであって、花の美しさにひかれたわけではない。

 人間だけが花の美しさを知っている。ふつうの人は、花の形や色とりどりの色彩に“まあきれい!”と感嘆の声を発するが、画家はその神秘的な複雑な色彩に魅力をかんずるであろうし、茶人は花の素朴な侘びやさびを感じたり、その芳香に心ひかれるであろう。そして更に深く花を愛する人たちは花の仕組みの巧みさに魅せられることであろう。

 花を愛する人に悪人はいないという。(これは絶対的な真理ではないが)花は常に清浄であって、人の心に汚濁を与えない。あらゆるものが汚染されつつあるこの世の中で、花は一服の清涼剤であろう。机上に飾った一鉢の草花がどれほど人の心を慰めてくれるか判らない。花は人間の心に美の意識と愛の感情を呼び起こしてくれる女神フローラの贈り物であると言えよう。